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正常と異常

  Aさんは歯医者が大嫌い。以前に入れ歯を作ったのだが、口の中

 に入れていると、痛くて噛めないし、長い間入れた儘だと吐き気が

  して、とても食べるどころではない。入れ歯を入れて3日としない

 うちに使わなくなった。それから10年以上も歯医者には行く気が

  しなかった。

 その間に残っている歯が歯周病でどんどん悪くなり、次々に抜けて

  いった。とうとう噛めなくなって来た時に、たまたま知人が私の医院

 に通っていたので、知人に勧められて来院した。

  口の中を診ると臼歯部(奥歯)はほとんど無く、前歯はあるのだが

 臼歯が無い為に、咬みあわせると前の方に倒れ、いわゆる出っ歯

  の状態だった。いろいろと手を尽くしたが残っている歯は全て抜歯

 し、上下の総義歯(総入れ歯)を作ることになった。

  もちろん、総義歯は出来るだけ使いやすい様に作ろうとしたが、

 Aさんが使える様になるかーーという事に関しては、正直、自信が無

  かった。今まで全く入れ歯を使っていない人が、いきなり総義歯に

 慣れて行くのは難しいからだ。

  Aさんの総義歯は自分ながら満足のいく出来だった。もちろん出た

 歯は治って、ほほ笑むと、とても魅力的な笑顔である。「後は、使っ

  て行けるかどうかだな?」と思ったが、本人は少しずつ慣れて

 いった。

  数か月したある日、Aさんが突然来院した。「先生に相談がある

 んですけどーーー。」というのである。「入れ歯が使えないんです

  か?」と聞くと、「痛みは少しあるんですけど、それよりも上唇の

 所に張りが無い様にみえるんです。」と言う。

  よく聞いてみると、職場の同僚に「以前と顔つきが全く変わって、

 上唇の所に張りが無く、老けて見える!」と言われたのだと言う。

  歯科医の立場から見れば、笑顔も魅力的で、唇の張りも正常で

 これ以上の張りは必要が無い様に思えるのだがーーー。

  なぜ同僚たちにそう言われたのか、と考えてみてふと思いついた。

 Aさんは以前の様に歯は出ていない。従って上唇の張りも「歯が出

  ていた」当時よりは無い。張りが無いので老けて見える。

 というのである。私から見れば、今が正常であり、Aさん自身も美し

  く見えているのだがーー。

 Aさんの同僚たちにとって、歯のでたAさんこそ本物のAさんで

  あり、歯の出ていないAさんは、Aさんではないのである。

 10年以上もAさんの顔に慣れ親しんだ人達の眼に、今のAさんの顔

  は奇異に写るのである。

 歯科では、口腔機能の回復と審美性の回復を大きな目標と

   している。

  だが審美性(美、醜をはっきり見分ける事)の回復は、時として

 患者さんやその周りの眼と、術者の間では大きな隔たりを生む事が

  ある。

 歯が出ているのは正常ではなく、審美性も劣るのだが、患者さんに

  とっては懐かしい自分の顔であり、美しく見える顔も不自然に思

 えるのかもしれない。

  とはいえ、「出っ歯の」の入れ歯をつくるなんて、歯科医の良心

 が許さないので、とりあえず入れ歯の上唇部分に材料を盛り

  修正する事で、Aさんには納得してもらった。

 ほんとに、臨床は難しい。

 

 

  
by tramasato | 2012-03-13 11:02


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